2012年4月29日日曜日

「科学的思考」のレッスン-学校では教えてくれないサイエンス (1)




科学哲学の立場から、科学的に考えるとはどういうことか(科学リテラシー)、そして科学リテラシーを身につけることで市民は何が出来るか、論じた本。分かりやすくて明快。科学哲学の予備知識は不要で、哲学について何も知らなくても納得できるように書かれている。ただし、例えば$p^2/a^3$は一定などと書かれてもたじろがないくらいの科学的な素養は必要。

内容は2部構成で、第1部では科学的であるとはどういうことかが論じられる。まず、科学/非科学を2分法で議論できないとした上で、理論がより良い(科学的である)であるための条件を論じる。普通はここで、より事実に近いのが良い理論、と考えがちだけど、それは上手くいかないとする。そして、これまでの科学の歴史を振り返りながらいわば帰納法で、科学的であるための3条件

  1. より多くの新奇な予言をしてそれを当てることができる
  2. その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない
  3. より多くの既知の事柄を、できるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる
を抽出して、それぞれ説明していく。

第2部では、科学的であるとはどういうことか、が分かった上で市民が科学に対して何ができるか、が論じられる。科学的な問題については、科学的に解決されなければいけないのはもちろんだが、「トランスサイエンス」な問いについては、科学だけで解決することはできず市民の参加に寄って解決されなければならないとして、「コンセンサス会議」という手法を紹介している。

というわけなのだが、やはり幾つかもにょる所がある。ここでは、「科学的であるとはどういうことか」、という論点に絞って議論したい。

この本では上で書いたように、科学的であること、を事実からの距離で定式化するできないとしている。この結論を導く議論は、1ページくらいの簡単なものだけど、我々は今の科学を通してしか事実というものを見ることができないので、事実との一致、という基準では単に今の科学との距離を測ることになる、それは違うだろう、とまとめられると思う。そこで、著者は事実というような抽象的なものではなく、「予言を当てることができる」といったいわば操作的な基準や、「その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」といった理論に内在する基準によって科学の良し悪しを定義付けようとする。

しかし、本当にそうだろうか。

普通、科学者はやはり「事実」を明らかにしようとしていると思う。確かに、ある科学理論があってそれが事実かどうかを完全に確かめることはできないのだけど、科学理論が事実を「志向」していることは確かだろう。(すいません、志向とか意味がよく分かっていない哲学用語使ってしまいました。)上の3条件に異議を唱えるわけではないけれど、上の3条件は科学であるための究極の基準ではなく、科学が事実を志向していることから導き出される2次的な基準ではないだろうか。

上の3条件が科学であるための究極の基準だとすると、何がまずいか。まず、上に書いたように科学に関する自然な直観が生かせない、ということがある。さらにそもそも、3条件の導出の仕方がまずい。この本では、上の3条件を具体例を見ながら導出していくわけだけど、結局それは「勝ち組」の科学理論に基づいた帰納法にならないだろうか?「勝ち組」は現代の科学の視点から決まっているので、結局、科学であることの基準を現代科学の立場から見てしまうという、「事実との一致」という基準の問題点と同じ問題を抱えることになってしまわないだろうか。

むしろ、実際のところはこうなっているのではないかと思う。まず「事実との一致」という基準がある。もちろん、これは操作的な基準には成り得ないから、直接はそれを使って理論の良さを判定したりすることはできない。しかし、これに加えて科学の「形而上学的枠組み」というものがあって、これで実際の研究場面で「どちらがより良い理論か」という判断が行われているのだど思う。

ここで「形而上学的」と言っても、悪いという意味ではない。また、哲学でいう形而上学(経験を超えた、存在するもの一般に妥当する学)とも少し違う。確かに経験は超えているのだけど、ここでいう経験は今考えている理論の適用範囲内のもので、例えば、天文学について考えているのだとすると、光学はこの形而上学的枠組に入る。光学によって望遠鏡が遠くのものを拡大してみせるのがわかるから、太陽黒点の存在が正当化される、といったような。

さて、では上に上げた3基準はどのように導出されるかというと、まず、理論が事実に一致する度合いが高いほど基準1,3が満たされることは明らかだろう。基準2はオーバーフィッティングを避ける仕組みで、「自然は単純である」という形而上学的基準から来ているのだと思う。だから逆に対象領域が単純でないような分野、例えば歴史学などは法則を立てる科学としてはなかなか成り立ちにくいのかもしれない。

まあ、似たようなこと考えている人はきっと居て、もう議論済みのことかもしれないけど。あともう1点もにょる所があって、それについてはいずれ書くかもしれないし書かないかもしれない。