2013年12月18日水曜日

ソシュールの言語理論と言語使用

ここでは、ソシュールのラングと言語使用との関係を考える。意味の使用説では、意味は言語の使用を説明しなければならないという要請があった。ラングとパロールを区別するソシュールの言語理論では、この要請が満たされないことを論じる。

まずソシュールの言語理論、とくにラングとパロールの分離について簡単にまとめる。

ソシュールはまず、単純な連合心理学的言語モデルを考える。人間が音声を聞くと、それがある概念に対応付けられる。同様に発話する際には、発話内容の概念が心のなかにあり、それが音声に翻訳される。この音声―概念間の対応をラングとソシュールは呼んでいる。これはある集団が共有する社会的なものである。一方、パロールは個々の言語使用の総体であり、言語を使用してある概念を他者へ伝えようとする意志的行為の集まりである。

この2つの相違をソシュールは擬似数式を用いて次のように表している。
+ ラングは1+1+1+1+... = I
+ パロールは1+1'+1''+1'''+... → 発散

ソシュールによればパロールは言語学の対象とはならず、ラングのみが言語学の対象となる。この分離は、おそらく、言語学という純粋科学を立ち上げようとする意図から来ているのだろう。パロールを言語学の対象から排除することにより、心理学という「余計なもの」を言語学の中から排除し、言語学を独自の対象を持ち、ほとんどアプリオリな原則からその事実が導出されるような学問体系へと純化することが目的だと思われる。

では、ラングと言語使用とはどのような関係にあるのだろうか?単純な連合心理学モデルによれば、ラングによって音声と観念との間の記号関係が与えられる。その観念がどのように使用されるかは、心理学の領域になるとソシュールは考えているようだ。

とは言え、ソシュールによれば、記号関係にあるものはシニフィアンとシニフィエであって、実際の音声や観念ではない。シニフィアンもシニフィエも言語体系に依存して与えられるものであり、何らかの意味で言語から独立したもの、というわけでない。

であるとすると、シニフィエと言語使用との間はまったく結合の方法がないように思われる。観念と使用との間は心理学的な結びつきがあると仮定できる。しかし、シニフィエは未だ言語的なものであり、心理学的に使用と結び付けられるものではないからだ。

したがって、ラングと言語使用との間の関連は、ソシュールの言語学では何ら説明できないことになる。

2013年12月8日日曜日

意味の使用説について

本論では、ヴィトゲンシュタインが唱えたとされる「意味の使用説」についてそれを主張するに至るアーギュメントを再構成してみたい。ここでヴィトゲンシュタインの考えとしては、「哲学探究」のものを主として考える。「哲学探究」のテキストとしては、丘沢静也訳の岩波書店版を参照する。

「意味の使用説」とはなんだろうか。若干ヴィトゲンシュタインの書いているものからは飛躍があるが、私はまず第一義的には「言葉の意味とは言葉の使用を説明するものでなくてはならない」という要請なのだと考える。その上で、規則のパラドックスによりどんな存在者もそのような説明を可能にしないことが導かれ、意味の概念を放棄して言葉の使用の記述に徹するというヴィトゲンシュタインの立場が導かれると考える。

通常の理解での意味の使用説


意味の使用説と通例されている主張は、特に「哲学探究」の43節において表明されているとされることが多い。
「意味」という単語が使われる―すべての場合ではないにしてもーほとんどの場合、この単語は次のように説明できる。単語の意味とは、言語におけるその使われ方である、と。
しかし、この部分は歯切れが悪いし、これを正当化する何らのアーギュメントも提示されていない。そもそも、ヴィトゲンシュタインは哲学においてはアーギュメントは存在しないとも述べている。
哲学は、あらゆることを提示するだけ。なにも説明しないし、なにも推論しない。ー あらゆることがオープンになっているので、なにも説明することがない。隠されているようなものに、私たちは興味を持たない。
哲学探究124節
ただ、ではこれでは他の立場を取る人をどう説得するのかよく分からない。ヴィトゲンシュタインは、自分の主張は正しく理解されれば自明である、と言いたいのかもしれない。しかし、ソシュールのように言語使用を意味から切り離す主張もあるのだから、すくなくとも表面上は意味の使用説は自明とは言いがたい主張である。少なくとも、「正しい」理解に達するためのアーギュメントが存在しなければならないだろう。実際、ヴィトゲンシュタインは「哲学探究」の中で、ある種の対話という形でアーギュメントを導入しているように思える。

そして、むしろ哲学にはアーギュメントが存在しない、という主張自体ある種の結論であって、やはりそれを正当化する何かのアーギュメントが存在するのではないか。その結論として、ある種限定した「哲学」という営みが成り立ち、その営みの中ではアーギュメントが存在しない、と言えるのではないかと思う。

意味の使用説は何でないか


では、意味の使用説はなにを主張しているのだろうか。これが「言葉の意味とは、それが表す観念のことである」といった立場や、「言葉の意味とは、それが表す指示対象のことである」といった立場のように、言葉に何か指示値(それがどんな存在論的資格をもつものであれ)があって、それが何であるかを問題にする立場ではないことは明らかだろう。確かに、使用全体を言葉の指示値と見なすことは可能で、こうすることで自明にあらゆる言語の使用を説明する意味論が構築できるが、それがヴィトゲンシュタインの意図だとは思えない。むしろ、ヴィトゲンシュタインは言葉が何か指示値(意味)をもつ、という考えそのものを批判している。

…品詞の区別について、アウグスティヌスは語っていない。言葉の習得をアウグスティヌスのように説明する人は、どうやら、まず第一に「テーブル」、「椅子」、「パン」などの名詞や、人の名前のことを考えているのではないか。その後でようやく、活動や性質をあらわす名前のことを考え、それ以外の品詞については、勝手に見つかるものだと思っているふしがある。
哲学探究第1節
1の例をながめてみれば、見当がつくかもしれない。言葉の意味という一般的な概念が言語の機能を靄で包んで、クリアに見えなくしてしまっているのだ。
哲学探究第5節

よってヴィトゲンシュタインは、言葉の指示値、という概念に対立するものとして言葉の使用、という概念を持ちだしているのだと思われる。

意味は使用を説明しなくてはならない


「哲学探究」に至る前段階である「青色本」では、言語にまつわる問題の核心が次のように述べられている。
If I give someone the order "fetch me a red flower from that meadow", how is he to know what sort of flower to bring, as I have only given him a word?
The Blue and Brown books, Harper & Row, p3 
一般化して言うと、言語記号しか与えられていないのに、それがなぜ言語使用を決定するのか、という問題である。これへの解として、「精神」というオカルト的な媒体の中の記号、つまり意味の存在が想定されてきたのだ、というのがヴィトゲンシュタインの指摘であり、これを批判することがヴィトゲンシュタインの目的である。つまり、「意味」や「精神」といった概念が引き起こす哲学的問題(キマイラ狩り, 哲学探究94節)を解消するためには、「意味は使用を説明しなくてはならない」という要請が課題とされるのである。

よって、「哲学探究」の冒頭部分では、プリミティブな言語における言語使用が繰り返し記述されることになる。

規則のパラドックス ー 使用を説明する「意味」は存在しない


言語使用を説明するものとして、簡単に考えつくのはその語の使用ルールである。しかし、いわゆる規則のパラドックスによれば、どんなルールもその使用を説明しない。ただ、この議論は誤解である、と批判されているので、検討を要するだろう。

私たちのパラドクスは、こういうものだった。「ルールは行動の仕方を決定できない。どんな行動の仕方でもルールと一致させることができるから。」それに対する答えは、こういうものだった。「どんな行動の仕方もルールと一致させることができるなら、ルールに矛盾させることもできる。だからここでは、一致も矛盾も存在しない。
そこに誤解があることは、私たちがこうして考えているあいだ解釈に解釈を重ねていることからも明らかである。まるでどの解釈も、少なくとも一瞬のあいだは私たちを安心させてくれるのだが、私たちはすぐにその解釈の背後にある解釈を考えてしまうかのようだ。つまり、このことによってわかるのは、ルールの解釈ではないルール把握というものが存在していることだ。ルール把握は、ルールを適用するケースごとに、「ルールにしたがう」ことと「ルールにそむく」ことにおいてあらわれる。
だから、「ルールに従った行動はどれも解釈だ」と言いたくなるのである。「解釈」と呼んでもいいのは、ルールについてひとつの表現を別の表現に置き換えることだけである。
哲学探究201節

通例の議論では、この引用の最初のパラグラフがいわゆる規則のパラドックスを表明していて、しかし第2パラグラフで「これは誤解である」と言われているので、すくなくとも規則のパラドックスの議論は解釈としては誤りだ、といわれる。

しかし、この「誤解」はもちろんヴィトゲンシュタインの議論に対する誤解ではなく、「ルール」の働きに対する「誤解」である。ヴィトゲンシュタインが指摘するように、このパラドックスは、解釈を行わず、我々が慣習にしたがったやり方でルールに「ただ」したがう、ということがあることを示すだけである。したがって、このパラドックスはパラドックスではないのだが、しかしパラドックスではなくとも、アーギュメントとしての価値はあるように思われる。そして、なにを示すアーギュメントかというと、ルールが「指し示す」対象を提示するだけ、つまり「解釈」を重ねるだけではルール把握は不可能である、ということを示すアーギュメントなのである。

ただ記述するだけ ー どんなものでも、そのままにしておく


したがって、言語がその使用を獲得するのは、その意味によってではない。というのも、どんな意味も誤解されえるからである。むしろ、言語がその使用を獲得するのは、その使用の慣習であり、また自然誌的事実である。これらを記述することから、言語の問題に関わろう、というのが「意味の使用説」であると思われる。

2013年8月28日水曜日

OCamlとRubyで同じプログラムを書いてみた

以前書いたとおり、OCamlRubyで簡単な家計簿プログラムmohを作った。全く同じというわけではなく、後に作ったRuby版のほうが機能を追加したりしているけど、面白い経験だったので感想を書いてみる。

客観的な比較


サイズを行数で比較すると、OCaml版は279、Ruby版は360で、Ruby版の方が機能が増えていることを考えるとほぼ同じくらいといえると思う。ただし、Rubyはユニットテストが作成に不可欠だったので、それを加えると499行とOCaml版に比べて倍くらいになる。まあユニットテストはOCamlでもした方がいいのだろうが、あとで述べる通り、しなくても動いてしまったのでユニットテストはしていない。いずれにしても、どちらも同じくらいコンパクトな言語だといえると思う。

OCamlのいいところ


これからは主観の入った比較となる。

よくOCamlは「コンパイルが通ればバグはないと言わしめる…」という枕詞が付く。もちろん、それは誇張だが、という但し書き付きで。しかし、mohを作ったときは本当にそうで、型検査が通った後のメインのロジックでバグは出なかった。悩まされたバグの原因はすべて正規表現だった。一方で、Rubyで書いたときは何度か型エラーに悩まされた。ユニットテストを書いてはいたが、型エラーが最後の段階、つまり誤ったメソッドが呼ばれるところまで分からないのでデバッグが難しかった。一方で、OCamlの型チェッカは型エラーの原因の比較的近くでエラーを検出するので型エラーではほとんど悩まされなかった。

よくユニットテストをするから型検査は不要、という議論があるけれどそれが間違いであることがわかると思う。一方で、ちゃんとした型システムをもった言語(JavaとかC++ではなく)を使うと実際に信頼性と生産性の向上に役に立つこともわかると思う。mohの開発では結局ユニットテストはしていない。(した方がいいことはわかっている。)

Rubyのいいところ

正直あまり感じなかった…ただ、オブジェクト指向というのは良い点かもしれない。OCaml版のmohでは内部のデータ構造にListを使っているのだけど、これをコードにベタに書いてしまっているのであとで変え難いというにはある。もちろんOCamlでもモジュールに隠蔽すれば簡単に変えられるようになるけれど、モジュールは若干構文が重い感じがする。全体的にOCamlは構文が重い気がする。

あと、正規表現の扱い。OCamlでは正規表現で何度も悩まされた。文字列リテラルでバックスラッシュ「\」をエスケープしなくてはいけないので、正規表現だと2重にエスケープしなくてはいけないことが多く、何がなんだかわからなくなる。これはStrモジュールを使った(Pcreではなく)せいもあるのかもしれないけど。

あと、CSVを解析するモジュールとか、ライブラリはやはり豊富でよく考えられていると思った。

まあまとめると、OCamlは中身、Rubyは見た目とHypeだなあと思いました。

2013年8月27日火曜日

お財布をプレーンテキストで管理する その2

mohとは?


moh (MOney Handler)はコマンドラインベースのシンプルな家計簿ソフトウェア。シンプルと言っても、複式簿記になんとなくは基づいているつもり。私は簿記は習ったことがないので、あまりあてにはならないけど。以前OCamlで書いた時のエントリはこちら。今回はRubyで書きなおして、家計簿の記法を変えたり機能を追加したりした。小さいソフトウェアだが、だいたい同じものをRubyとOCamlで書いてみて色々面白かったので、そのこともいずれ書きたいと思うが、とりあえず今回は使い方だけ。

インストール


まずRubyをインストールする必要がある。Macの人は、付属のruby 1.8.7を使えば良いので何もしなくて良い。

次にwhen_exeをインストールする
\$ sudo gem install when_exe

あとはhttps://github.com/yoriyuki/moh/tree/0.0.1からmoh.rbをダウンロードし、適当なところに置くだけ。家計簿データの置いてあるディレクトリのトップに置くと便利だと思う。

使い方

家計簿を書く

mohの家計簿はプレーンテキスト。指定したディレクトリの下にあるテキストファイルを全部スキャンして、mohの形式で書かれた行を家計簿データと見なす。例えば、

[2012-11-29]\$ Wallet  Expense 7-11 convenience store 700

と書くと、WalletからExpenseへ700円移動した(使った)ことになる。7-11 convenience storeはコメント。

口座は階層化することができる。

[2012-11-29]\$ Wallet  Expense:Lunch 7-11 convenience store 700

今、口座に何円あるか分かっていれば、それを記述できる。

[2013-08-01]\$= Wallet 6000

これで財布に6000円あることになる。もしこれがこれまでの集計結果と違えば、mohは自動的に使途不明金または不明な収入をこの時点に挿入する。

レポートの生成


\$ ruby moh.rb -d XXX -s Wallet 20130101 20131231

とすると、XXXディレクトリの下にある*.howmファイルを読み込んで、口座Walletの2013年1月1日から2013年12月31日までの取引に関するサマリーを生成する。-dを省略するとカレントディレクトリが仮定される。-sでサマリーを生成するが、-tとすると条件に対応する取引がすべて表示される。

--howm_suffix=[SFX]で読み込むファイルのサフィックスをSFXに変更できる。

\$ ruby moh.rb -d XXX --howm_suffix=txt -s Wallet 20120101 20121231

個人的な理由から、三井住友銀行と三井住友VISAが生成するcsvファイルを読み込むことができる。
\$ ruby moh.rb --smbc_dir=XXX -s -t Wallet 20120101 20121231
\$ ruby moh.rb --smbc_visa_dir XXX -s Wallet 20120101 20121231

便利にお使いいただければ幸い。

2013年7月24日水曜日

荘子、孟子を批判する

孟子と荘子はほぼ同時代の人であったらしい。互いに全く言及していないようだが、似たような思想的雰囲気を共有していた可能性はあると思う。孟子の文章と荘子の文章のなかにつながるように思われる部分があったので、それを荘子の孟子批判として読んでみたいと思う。

孟子の性善説について


孟子は一般に人間の本性が善である、という性善説を唱えたとされる。孟子の性善説の例証として「惻隠の情」の話はとても有名である。もし赤ん坊が井戸に落ちかけていたとすると、人間誰も打算抜きで助けようとするだろう、これが人間に善なる本性が備わっている証拠だと。まあ現代日本の都会では見て見ぬふりをされそうな気もするが。

ただ、ここから人間の本性が善である、と結論するのには問題がある。人間には悪の性質も十分に持ち合わせているように見えるからである。これに対して孟子は、告子編で繰り返し論じられているように、それは人間の本性ではなく外的な要因によるものだ、と考える。

では、その論拠はなんだろうか。多分この一節がその論拠になっているように思う。
告子曰く、性これを生と謂う。孟子曰く、性これを生と謂うは、猶白これを白と謂うがごときか。曰く、然り。羽の白きを白しとするは、猶雪の白きを白しとするがごとく、雪の白きを白とするは、猶玉の白きを白しとするがごときかごときか。曰く、然り。然らば、即ち犬の性は、猶牛の性のごとく、牛の性は猶人の性のごときか。 
(岩波文庫「孟子」(下)告子章句上三)
告子は、人間の生全体が人間の本性であると説く。当然、善も悪も本性に含まれるわけである。その後の議論はどうも古代中国の言語哲学特有の議論の気がして面白そうだが、そのへんは端折って現代的な議論でごまかすと、孟子は他の動物と区別できるような人間の性質が人間の本性であると考えているようだ。そして、その本性すなわち仁義(善)と定義しているように思う。

まあ、他の動物もしないような悪事を人間はたくさんするからそんなことでは善を定義できないように思うが、とりあえずそれは置くする。

荘子の性善説批判


このような孟子の議論を「荘子」の中では恵子に語らせて批判している。恵子は「性」の代わりに「情」という言葉を使っているが、「孟子」告子篇章句上八に「是れ豈人の情ならんや。」と孟子も「情」を本性の意味に使っているので「荘子」のこの恵子の議論は孟子の議論と関連していると理解できる。

恵子、荘子に謂いて曰わく、人は故より情なきかと。荘子曰く、然りと。恵子曰わく、人にして情なくんば、何を以ってかこれを人と謂わんと。荘子曰く、道これに貌を与え、天これに形を与う。悪んぞこれを人と謂わざるを得んやと。恵子曰く、既にこれを人と謂う、悪んぞ情なきを得んやと。荘子、是れ吾の謂わゆる情には非ず。吾の謂わゆる情なしとは、人の好悪を以て内に其の身を傷らず、常に自然に因りて生を益さざることを言うなりと。恵子曰く、性を益さざれば、何を以てか其の身を有たんと。荘子曰く、道これに貌を与え、天これに形を与う。好悪を以て内に其の身を傷ることなし。今、子は子の神を外にし、子の精を労し、樹に倚りて吟じ、稿梧に拠りて瞑す。天、子の形を選しに、子は堅白を以て鳴ると。
(岩波文庫「荘子」第一冊内篇徳充符篇六)

恵子に問われて、荘子は人間には生まれもっての本性はない、と答えている。恵子はこれに反論して、人間という生物種として一定の本質(二本足で歩くなど)を与えられているのだから、本性がないはずがない、と論じている。これは孟子と似たような立場であろう。孟子は人間を他の動物を区別する性質を人間の本質ととらえ、それを「善」と見なしているから。

さて、これに対す荘子の反論は、一見、恵子の議論に答えていないように見えるが、孟子のような議論を念頭に置いて批判していると考えると、次のように解釈できると思う。まず、人間にはいろいろな性質がある。その中には人間を他の動物から区別する性質もあるし、生きている、ということからくる性質もある。しかし、だからといって孟子のように特定の性質、例えば人間を他の動物から区別する性質、を善とみなして好んだり、ある性質を動物的とみなして嫌ったり、あるいは生きている、ということを重視してそれを助長すべきだ、ということが帰結するわけではない。むしろそれらはすべて、死に向かう性質も含めて天(道)が与えたものである。

では荘子の立場とは何かというと、この天が与えたものをただ受け入れる、ということである。なぜ天が与えた性質をすべて受け入れるべきかというと、それは天は自然(自ずと然りとなるもの)だからである。これは私の作業仮説だが、荘子は「道」(従ったり従わなかったりされるもの全般、例えば聖王の事績など)を2つに分類しているように思う。一つは、聖王の事績などというように、従うこともできるし、従わないこともできるもの。もう一つは万物が従っていると想定される「大道」のように、従わない、ということが考えられないような道のことである。後者の道は、自ずと然り、つまり自然である。というのも然りとならないことがあらかじめ排除されているからである。そしてすべての事物は大道のもとに生じる以上、自ずと大道に従う(自然)。したがって、われわれはこれを受け入れる他ないのである。

2013年7月10日水曜日

CSPによる並行システムの検証その2

阪大での講義のスライドとサンプルコードを公開する。前回→CSPによるコンカレントシステムの検証(1)

スライド


サンプルコード

OS.csp

enum {l, m, h, none};

var active = none;

var wait_h = false;
var wait_m = false;
var wait_l = false;

H = [active == h](act_h -> H [] act_h{wait_h = false} -> H);
M = [active == m](act_m -> M [] act_m{wait_m = false} -> M);
L = [active == l](act_l -> L [] act_l{wait_l = false} -> L);

Scheduler =
 atomic {
  (req_h -> {wait_h = true} -> Skip
  [] req_m -> {wait_m = true} -> Skip
  [] req_l -> {wait_l = true} -> Skip);
  case {
   wait_h: {active = h} -> Skip
   wait_m: {active = m} -> Skip
   wait_l: {active = l} -> Skip
   default: {active = none} -> Skip
  }
 }; Scheduler;

Env = [!wait_h]req_h -> Env [] [!wait_m]req_m -> Env [] [!wait_l]req_l -> Env;

System = H ||| M ||| L ||| (Scheduler || Env);
 
#assert System deadlockfree;

#assert System |= G(req_h -> F act_h);
#assert System |= G(req_m -> F act_m);
#assert System |= G(req_l -> F act_l);

#assert System |= G(req_h -> ((! act_l) U act_h));
#assert System |= G(req_l -> ((! act_h) U act_l));

OS-PriInv.csp

enum {l, m, h, none};

var active = none;

var wait_h = false;
var wait_m = false;
var wait_l = false;

var resource = none;

H = [active == h && (resource == none || resource == h)]
 (act_h{resource = h} -> H
  [] act_h{resource = none; wait_h = false} -> H);
M = [active == m](act_m -> M [] act_m{wait_m = false} -> M);
L = [active == l && (resource == none || resource == l)]
 (act_l{resource = l} -> L 
  [] act_l{resource = none; wait_l = false} -> L);

Scheduler =
 atomic {
  (req_h -> {wait_h = true} -> Skip
  [] req_m -> {wait_m = true} -> Skip
  [] req_l -> {wait_l = true} -> Skip);
  case {
   wait_h: {active = h} -> Skip
   wait_m: {active = m} -> Skip
   wait_l: {active = l} -> Skip
   default: {active = none} -> Skip
  }
 }; Scheduler;

Env = [!wait_h]req_h -> Env [] [!wait_m]req_m -> Env [] [!wait_l]req_l -> Env;

System = H ||| M ||| L ||| (Scheduler || Env);
 
#assert System deadlockfree;

#assert System |= G(req_h -> F act_h);
#assert System |= G(req_m -> F act_m);
#assert System |= G(req_l -> F act_l);

#assert System |= G(req_h -> ((! act_l) U act_h));
#assert System |= G(req_l -> ((! act_h) U act_l));

OS-PriInh.csp

enum {l, m, h, none};

var active = none;

var wait_h = false;
var wait_m = false;
var wait_l = false;

var resource = none;

H = [active == h && (resource == none || resource == h)]
 (act_h{resource = h} -> H
  [] act_h{resource = none; wait_h = false} -> H);
M = [active == m](act_m -> M [] act_m{wait_m = false} -> M);
L = [active == l && (resource == none || resource == l)]
 (act_l{resource = l} -> L 
  [] act_l{resource = none; wait_l = false} -> L);

Scheduler =
 atomic {
  (req_h -> {wait_h = true} -> Skip
  [] req_m -> {wait_m = true} -> Skip
  [] req_l -> {wait_l = true} -> Skip);
  case {
   resource == l: {active = l} -> Skip
   wait_h: {active = h} -> Skip
   wait_m: {active = m} -> Skip
   wait_l: {active = l} -> Skip
   default: {active = none} -> Skip
  }
 }; Scheduler;

Env = [!wait_h]req_h -> Env [] [!wait_m]req_m -> Env [] [!wait_l]req_l -> Env;

System = H ||| M ||| L ||| (Scheduler || Env);
 
#assert System deadlockfree;

#assert System |= G(req_h -> F act_h);
#assert System |= G(req_m -> F act_m);
#assert System |= G(req_l -> F act_l);

#assert System |= G(req_h -> ((! act_l) U act_h));
#assert System |= G(req_l -> ((! act_h) U act_l));

2013年6月17日月曜日

カントールの楽園にて - 現代数学とは何か

〇〇学とは何か?などという質問は答えにくいし、そもそも的はずれな気はする。物理学とは何か?とか言われると、まあ物理を対象にするんでしょ、とは言えそうだけど、じゃあ物理って何?Naturaな物全部でしょ。でそれ以外のものってあるの、という話になる。とは言え、〇〇学という名前で講座を構えていたりすると、やはり外部から君等何やってんの、と言われて答えなくてはいけないことがあるだろうし、結果として的はずれな回答が量産されてきた気がする。

と的外れを承知で、だけどもやはり分かりやすい解説は必要だなあと思って自分なりの答えをまとめてみたい。

古典古代の考え


古典古代というと、ここでは古代ギリシャ・ローマのこと。ここで数学とはどう考えられていたかというと、アリストテレスによれば「量」を扱う学、と特徴づけられていた。どのような量を扱うかで、数学はさらに、離散量を扱う「数論」、連続量を扱う「幾何」、連続量同士の比例関係を扱う「音楽」、動的に変化する連続量をあつかう「天文学」の4分野に分類される。

この考えはかなり影響があったようで、ガウスの講義録を読んだことがあるけれど、数学は量を扱う学問で…という話から始まっていた。もっとも、ガウスはこんな一般論は興味ないみたいですぐ具体的な数学の話になったけど。最近でもある人文系の学者は数学を適応することを「量化の暴力」(笑)と呼んだりしている。

では、現代の数学は量を扱う学問なのだろうか。正直あまりそうは思えない。こじつければこじつけられるだろうけど、カラスと机と似ているところはな~んだ、みたいな話になると思う。

では現代数学とはなんだろうか。それは、カントールの楽園からの声なのである。

カントールの楽園にて


ゲオルグ・カントールは19世紀半ばの数学者。主な業績は集合論を作ったことにある。集合論とは集合に関する理論だけど(当たり前)、集合とはなんだろうか。一応、「物の集まり」で集まりに入るか入らないかはっきりした基準があるもの、と教えられる。普通の数学者はこの定義を教えられた後は、実際に集合概念が使われるのを見て、集合とは何かを学んでいくのだと思う。こういう集合論を素朴集合論という。もっとも素朴集合論は突っ込みどころ満載なので、専門の集合論研究者は集合がみたすべき公理を色々立ててその公理の性質を調べる、という間接的な方法で集合を研究している。例えば、ある集合と別の集合を合わせたものも集合になる、とか、(これはもっと問題含みだが)無限集合が存在する、とか。ただ、一般の数学者はこういう話はほとんど知らないのが普通。

で、現代の数学は集合が何らかの意味で実在していると考え(存在論的プラトニズム)、集合またはこれで表現できるものについて研究しているとだいたい言えると思う。圏論とかはちょっと違うかもしれないけど。数学を専門的に学ぶと、それまで学んできた数学が、集合の言葉で徹底的に再構成されるのを経験すると思う。

さっき、集合は物の集まり、といったけど、原子の集まり、とかそういった「自然的な」対象の集合はあまり考えられない。集合論は普通何も含まない集合(空集合)の存在を要請するわけだけど、空集合から出発してほとんどあらゆる数学対象が構成できる。∅を空集合の記号、{a, b, c}をa, b, cからなる集合とすると、自然数は次のように構成できる。
0 = ∅、1={∅}、2={∅,{∅}}、3={∅,{∅,{∅}}} ...
などなど。結局具体的な「物」は全然なくても数学が集合論の中だけで議論できてしまうのだ。これをカントールの楽園と呼びたい。

これでいいのか、とか存在論的プラトニズムの問題


さて、こんな楽園に暮らしていていいのだろうか、というのはちょっと不安もある。もっと実践的なことをやれ、というのは野暮だけど、存在論的プラトニズム(数学は特殊な実在のクラスである数学的対象について議論している)についてはいろいろもにょるものがある。ヴィトゲンシュタインなどは、数学は有意味だけど、そこで現れている名辞にそのまま対応した対象が実在すると考え無くていいんだよ、という主張をするために言語哲学に入っていったようだし、ブラウアーは数学的対象を、客観的実在の代わりに、数学者の精神の中にある観念的な対象としようとした。

とまあ、批判もあるわけだけど、集合論という枠組みは21世紀に入っても、当面揺らぎそうにない。

入門XML



XMLというと、ソースまともに読めないし文法が厳密すぎて手で書けないし、規格が乱立していてよく分からないし、まあいい印象はなかった。この本を読んでその印象が変わったかというと、どうだろう、これまで独自のバイナリ形式で保存していたところ、XMLで保存するようになって互換性が上がったとは言えるのかな。XMLにはAutomata theoryとかが影響しているそうだし、XSLTなんかちょっと関数型言語っぽく見えて面白そうではあった。

2013年6月4日火曜日

並行システムの検証と実装



並行システムのモデリング言語CSP(Communicating Sequencial Process)の本。単にCSPの理論だけでなく、モデル検査器FDRを使った検証や、JavaによるCSPの実装JCSPを使って、CSPで記述された並行システムの実装を行うところが特徴。

といっても私はCSPの理論だけに興味があったので、理論に関係しそうなところを拾い読み。CSPは内部選択と外部選択の違いなど結構微妙なところが多く、きちんと理解したとはまだいえないと思う。一番わからないのが失敗発散方式(Failure-Divergent model)で、定義の動機付けがよく分からない。この本もさらっと定義と他の方式との比較が書いてあるだけで、よく分からなかった。

とは言え、Hoareの本はちょっと古いし、Loscoeの本は難しすぎるので、CSPの参考図書としてこれから必要があれば参照すると思う。

2013年5月26日日曜日

FMEA・FTA実施法



FMEA,FTAどちらもシステムの安全性を分析するときに使われる手法。(だけじゃないけど)

簡単に説明すると、FMEA(Fault Mode and Effect Analysis)は、まずシステムをコンポーネントに分けて、それぞれがどのような故障モードを持つか書きだす。そしてそれぞれについてシステム全体への影響と対策を書いていく、というもの。実システムについてやってみると結構難しく、経験ある人から、故障モードと故障を混同しているとダメ出しされた。実は違いがわかっていない。

FTA(Fault Tree Analysis)は、問題にしたいフォルト(飛行機が落ちるとか、エアバックが衝突時以外に起動してしまうとか)から出発し、それがどのような事象を原因にして起こるか書きだす。そして、その事象がすべてそろったときフォルトが起きるなら、事象をANDゲートで結び、どれかひとつの事象で起きるときにはORゲートで結ぶ。これを繰り返して、これ以上分解できない基本事象に至れば終わり。こうやって出来たブール木を解析して、フォルトの必要十分条件を求めたりする。

で、FMEAとFTAとどう使い分けるかというと、これはあまりはっきりした基準はないそうだ。ただ、自分の印象論で言うと、どういう問題が起こりえるか網羅的に知りたいときにはFMEAを、問題にしたいフォルトがあってその原因を探りたいときはFTAをするのかなあと思っている。

私はちょっと勉強しただけなのだけで実務経験もないのだけど、ちょっと感想を。もちろんどちらの手法もやらないよりやった方がいいのだけど、ちょっとなあと思うところもある。まずFMEAについて言うと、FMEAって基本的に1つの故障の影響しか考えなくて、複数の故障は考えない。でも実際事故が起きているのを見ると、複数の故障が絡んでいることが多いわけで、FMEAだと不十分かなあと思う。

それからFTA。ツリーを書いて、ある程度フォルトの原因が列挙できるわけだけど、どの原因で起きやすいか、とか知りたいし、そうすると確率を計算したくなる。実際、FTAから故障率を求めたりする方法もあるのだけど、この方法は基本事象が独立に起きると仮定している。だから、冗長系を入れたりするとすごく確率が小さくなる。でも本当に独立と仮定していいのだろうか。実際にはフォルトがカスケード的に起きることのほうが多いんじゃないか。まあ例えば地震→津波→停電みたいな。

この本では、FTAの活用例として原子力の安全性に関するラスムッセン報告書を挙げているのだが、Wikipediaによると、この報告書は原子炉のメルトダウンは2万年に1回しか起きないと評価しているそうだ。他にも…万年に1回とかいう評価は以前はよく聞いたけど、結局この数十年のうちに3回起きているわけで、これはFTA手法の失敗例ではないだろうか。

リスク評価で、PRA(確率論的リスクアセスメント)が流行っているけど、元の確率がゴミなら意味ないよね、という話だと思う。

2013年5月21日火曜日

女子大生マイの特許ファイル他


仕事で特許を扱わなくてはいけなくなって、泥縄的に読んだ。こういう本ってもはやほとんどあらゆる分野にあるんだね。まあ、嚆矢になった本はきちんとラノベになっていたのにくらべて、この本は対話形式で物事を解説するというプラトンの時代からあるやり方になってるけど。

内容は、具体的な例を上げながら、特許を構成する要件について解説するというもので、特許の基本についてわかりやすく解説してある。



で仕事では特許調査をしなくてはいけなかったのだけど、これを一応参考にしてみた。ただ、ちゃんとやるのはとても手間が掛かりそうなことが分かってやれやれという感じだった。

それにしても、自分が見た限りでは、特許ってどこが新しいの??というものが多い気がする。その割にはやたらと一般的な請求項が立ててあったりして、新しい創意工夫をしてもそれに引っかかってしまいそう。ほんとうに必要な制度なのだろうか。

2013年5月19日日曜日

荘子と相対主義

荘子について英語版ウィキペディアは価値相対主義者であると書いている。
Zhuang Zhou, more commonly known as Zhuangzi[1] (or Master Zhuang), was an influential Chinese philosopher who lived around the 4th century BCE during the Warring States Period, a period corresponding to the summit of Chinese philosophy, the Hundred Schools of Thought. He is credited with writing—in part or in whole—a work known by his name, the Zhuangzi, which expresses a philosophy which is skeptical, arguing that life is limited and knowledge to be gained is unlimited. His philosophy can be considered a precursor of relativism in systems of value.  
 ただ「荘子」を読むと、少なくとも単純な相対主義を批判しているように思える。
荘子曰く、射る者、前め期するに非ずして中る、これを善射と謂わば、天下皆な羿なり。可ならんかと。恵子曰く、可なりと。荘子曰く、天下に公是あるに非ざるなり。而して各々その是とする所を是とすれば、天下皆堯なり。可ならんかと。恵子曰く、可なりと。
荘子曰く、然らば即ち儒・墨・楊・へいの四、夫子と五と為る。果たして孰れか是なるや。あるいは魯遽の若き者か。その弟子曰わく、我れ夫子の道を得たり。吾れ能く冬に鼎を焚きて夏に冰りを造ると。魯遽曰く、是れ直だ陽を以って陽を召き、陰を以て陰を召くのみ。吾が謂わゆる道に非ざるなり。吾れ子に吾が道を示さんと。是に於いてこれが為に瑟を調え、一を堂に廃き、一を室に廃き、宮を鼓すれば宮動き、角を鼓すれば角動く。音律同じきかな。或いは一弦を改調して、五音に於いて当たるなからしむるや、これを鼓して二十五弦皆な動く。未だ始めより声に異ならざるも、音の君たればのみ。且んど是くの若き者かと。(岩波文庫「荘子」第3冊、徐無鬼篇第5節、241ページ) 
最初の節は理解しやすいと思う。的を射る、という行為は単に矢が的を射る、という物理的事実だけでなく、的を射ようとする意図が含まれていなければならない。同様に、何かが「是」である、とは単に発話内容や思考内容の性質ではなく、ある基準に従って「是」なる発話や思考をしようとする意図が含まれていなければならない。しかし、もし「公是」というものがないという相対主義の立場にしたがうと、各人が各人独自の基準で「是非」を判断しているだけになる。

ここでヴィトゲンシュタインの私的言語の不可能性の議論を思い出そう。ヴィトゲンシュタインによれば、言語が意味を持つためには、何かの基準によってそれが使用されることが必要である。しかし、ある特定個人にしか理解されない私的言語が存在すると、その私的言語の使用基準はその特定個人の言語使用に合致しているかどうかで判断する他はない。しかし、これは私的言語においてあらゆる言語使用が正当化されてしまうということである。よって、私的言語は使用基準を持ち得ず存在しない。

この議論を「是非」の基準について当てはめてみよう。もし「是非」の基準が各人それぞれであるとすると、あらゆる「是非」の判断が正当化されてしまうということである。これは「是非」の基準がないということと同じである。これは「是非」が存在しないことと同じである。

さて、恵子はこの議論を否定して、すべての人が羿や堯で良い、と言っている。これに対して、後段では荘子は恵子に反問する。もしすべての人が羿や堯で良いのならば、相対主義を否定する学派も是とならないだろうか。そのあと魯遽の例えが書かれているのだが、この喩えはポイントが何も書いていないので理解し難い。しかしとりあえず、魯遽の弟子は、どんな立場の主張も擁護したり反駁したりできるソフィスト、魯遽はさまざまな立場の主張を統合する「音の君」と理解できないだろうか。「荘子」の天下篇にある恵子の命題「広く万物を愛すれば天地は一体なり」を見ると、恵子の立場は様々な学説を統合する立場、つまり魯遽に例えられている立場と思える。

このような立場に、荘子は批判的だ。恵子の立場は、確かに様々な学説を統合する立場ではあるが、それは「音の君」ではあってもやはりうつろいゆく「声」に過ぎず、「是」ではないと。しかし、なぜうつろいゆく「声」を「是」としてコミットしないのかについては、荘子のいう「明智」とは何かとも関わってくるのだと思うのだが、このあと何も書かれていないのでこの節からは読み取ることはできない。


2013年3月19日火曜日

墨子「経・経説」を読んだ



「墨子」の現代語訳を主要な篇は墨子 (ちくま学芸文庫)で、経・経説は上記の東洋文庫版で読んだ。墨子の言動を記録した「なんとか篇」(尚賢篇とか非攻篇とか)はプロパガンダなのだろう、とても分かりやすい。これらの篇は墨子が儒教の教典をよく理解していることが分かって面白いし、基本的な出発点が儒家とそれほどかけ離れているわけでもないことが分かる。

一方、経・経説は、うーんさっぱり分かりません。訳者もよく分からないらしく、「本文に疑問がある」とか「意味が通らないがとりあえずこのように訳しておいた」とか書いてある。経と経説は上篇と下篇に分かれていて、上篇では経は定義集、経説はその解説を、下篇では経は命題集、経説はやはりその解説になっている。なんか論理哲学論考みたいなスタイルの書物なのだけど、「円」や「力」の定義と「仁義」の定義が同じテキストのなかでされていたりと、現代人の観点から見ると面白い。ちなみに「仁」は「愛」、「義」は「利」のことであるそうだ。

他にも「無知」を勧める道家の立場は矛盾している、なぜなら学ばないことを学ばせることだから、という至極最もな批判とか、「法」とか「為」の定義であるとか、色々面白い。経の定義によると、「為」とは「知に窮して欲に引かれる」ことである。此の定義に従うと「無為」はまあ当たり前の主張になりそう。

私は中国語原文は読めないけど、読み下し文くらいは読めるので経・経説の読み下し文で手に入りやすいものがあったら読んでみたい。例えばどんな漢字が使われているかでも色々情報があると思うので。

以上、老子についてのエントリが難しすぎて進まない逃避でした。

2013年2月8日金曜日

老子と荘子の関係について


最近「老子」を読んだ。色々面白かったのだけど、とりあえず荘子との関係で思ったことを書いてみる。私は中国の思想とか文献考証には疎いので、感想程度と思って読んでほしい。

伝統的には、荘子は老子の思想を受けて、それを発展させたと言われてきた。これは史記で司馬遷がそう書いているからだと思う(ごめんなさい、史記読んでない)。ただ、素直に両方の本を読んでみると、あまりそうは思われない。確かに「荘子」の中で老子は度々言及されるが、老子がよく出てくるのは後世の付け足しとされる「外篇」や「雑篇」で、本来の荘子の思想に近いとされる内篇では三回しか言及されない。特に、中核とされる逍遥游篇と斉物論篇は、老子に言及することなく、完全にオリジナルな思想を展開する形で書かれている。むしろ、内篇の中で最初に老子が言及されているところでは、少なくとも老子を押し頂く学派を批判するようなことが書かれている。

(岩波文庫「荘子 第一冊 [内篇]」p98 養生主篇 五)
老たん死す。秦失これを弔し、三たび号して出づ。弟子曰く、夫子の友に非ずやと。曰く、然りと。然らば即ち弔することの此の若くにして可ならんや。曰く、然り。始めは、我以て其の人と為せるも、而も今は非なり。向に吾れ入りて弔せるに、老者のこれを哭すること其の子を哭するが如く、少者のこれを哭すること其の母を哭するが如きあり。彼れ其のこれに会する所以は、必ず言をもとめざるに而も言い、哭をもとめざるに而も哭する者あらん。是れ天を遁れ情に倍きて其の受くるところを忘る。古者は、これを天を遁るるの刑と謂えり。適〃来たるは夫子の時なり。適〃去るは夫子の順なり。時に安んじて順に処れば、哀楽も入る能わず。古者は是れを帝の県解と謂えり。

つまり、老子の死を自然な変化とみなさず葬儀で号泣している老子の信奉者たちが批判の対象になっている。

では何の関係もないかというと、そういうわけでは無さそうだ。例えば、

(講談社学術文庫「老子」下篇42章冒頭部分)
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず



(上掲「荘子」p67後半 斉物論篇 5節)
既己に一たり、はた言あるを得んや。既己にこれを一と謂う。はた言なきを得んや。一と言とは二たり。二と一とは三たり。此れより以往は巧歴も得ること能わず。而るを況んや其の凡をや。故に無より有に適くすら以て三に至る、而るを況んや有より有に適くをや。適くなくして是れに因らんのみ。

とは関係有りそうに思う。ただ、荘子が言語論的な議論をしているところを、老子では形而上学的な世界の起源論になっているところが違う。

また、

(同「老子」下篇76節冒頭部分)
人の生まるるや柔弱、其の死するや堅強なり。

とあるけれど、荘子の斉物論篇では人の心が生まれた時の柔軟な状態から、凝り固まって死に至るまでの過程が描かれている。(Chad Hansenの説)

とはいえ、荘子と老子とで同じフレーズでも観点が異なっているので、単純に荘子が老子に学んだとは言えないだろう。むしろ、荘子や老子以前に原道家的な思想が有って、両者はそれを受けているのではないかと思う。

2013年1月28日月曜日

Emacsと改行の問題

Emacsは国際条約で禁止すべきだ、という意見もあるが、私は最近Emacsを見なおした派。文章を書くのは全部Emacs上にしたい。とはいえ、ちょっと厄介なのが改行の扱い。Emacs上ではauto-fill-modeで文章をある文字数で改行したほうが扱いやすい。TeX(これも禁止の声が上がっている)だとこれで問題ないのだけど、HTMLやブログの場合、改行が無視されずそのまま表示される。これはウィンドウ幅に合わせて表示を変えたいとき(普通、HTMLやブログではそうだと思う)にとても困る。

そこで、というかlonglines-modeというものが用意されている。これは、auto-fillではsoft line breakのみを挿入し、改行がEmacs上だけで意味を持つようにするものらしい。soft line breakはコピー・ペーストの時には削除されるようなので、上の問題が解決される、ように思ったのだが。残念なことに、longlines-modeではsoft line breakは削除されるが、その位置に空白が残ってしまうようだ。英文では問題無いだろうが、日本語では問題になる。

そこで、簡単なスクリプトを書いてみた、というのが本題。

(defun unfill ()
  (interactive)
  (while (re-search-forward ".+$" nil t)
    (if (not (= (char-after (+ 1 (point))) ?\n))
        (delete-char 1))))

unfillを実行すると、空白行とパラグラフ最後の改行以外の改行が削除される。もっとエレガントに書けるかもしれないけど、とりあえず動いているので満足。

2013年1月20日日曜日

ゲーデルの不完全性定理からP≠NP問題にアプローチする - その2

ゲーデルの不完全性定理からP≠NP問題にアプローチするで、限定算術の無矛盾性証明を使って計算量の問題を考えるアプローチを紹介した。また、限定算術ではほとんどの体系の無矛盾性が言えないことも紹介した。今回は、無矛盾性概念を弱めることで限定算術の分離に用いようという色々な試みを紹介し、それから私のアプローチ(Yamagata 2012)を紹介したい。

前回紹介したParis Wiklie 1987の結果によると、限定算術はロビンソン算術Q(普通のペアノ算術から数学的帰納法を除いたもの)の無矛盾性を言わない。ただし、この結果はQが任意の述語論理を使えると仮定しているので、述語論理を弱めることが考えられる。例えば出てくる論理式の複雑度(量化子の数)を制限したり、カットなしの証明に制限したりすることが行われてきた。Pudlàk 1990は$S_2$($S^i_2$をすべて合わせたもの)が、$S^1_2$の証明で現れる論理式の量化子がすべて限定されている証明の無矛盾性を言わないことを示した。また、BussとIgnjatović 1995では、$S^i_2$は$S_2$から帰納法を除いた体系で、証明に現れる量化子の数がi個以下のものの無矛盾性($S^{-1}_2-B^i$)を言わないことを示した。

また、カット無しの体系の無矛盾性をいう試みについても否定的な結果が得られていて、Adamowiczらの研究では、エルブラン無矛盾性という弱い無矛盾性を定義して、これが限定算術で言えないことを示している。また、Buss 1986ではカットルールが公理に対してだけ適応されるよう証明を制限した$S^i_2$について、その無矛盾性が$S^i_2$で言えないことを示している。

もっとも、これらは必ずしも否定的な結果とは言えなくて、例えばもし$S^{-1}_2-B^i$の無矛盾性がもっと上の階層で言えれば、限定算術の分離ができる。もちろん、まだ言えていないけど。

さて、こうした否定的結果の原因はなんだろうか。まず、限定算術が数学的帰納法をのぞいた体系の無矛盾性を言えなかったりするのは、限定算術が実は帰納法を除いた体系で(帰納的カットを使って)解釈可能なことから当然だろう。では、それらの無矛盾性が、対応する限定算術より上の方の階層の限定算術で、なかなか言えそうにないのはなぜだろうか。限定算術ではなくて$I\Sigma^n$では、$I\Sigma^{n+1}$で$I\Sigma^n$の真理定義が可能なことからその分離ができるのだった。このやり方は限定算術では使えない。というのも、項を評価する関数が限定算術では定義できないからだ。

ここから、限定算術では項の指示対象の存在していると仮定できない、と考えるというのが私の考え。なので、これまでの限定算術は不完全で、これに加えて項の存在を示すために使われる公理と推論を体系に加える必要がある。Yamagata 2012では、これを$S^i_2E$として、ここから通常と同じ限定算術が導けることを示した。もっと重要なことは、BussとIgnjatović 1995と同様の体系$S^{-1}_2E-B^i$を定義して、この無矛盾性が$S^{i+2}_2$で言えることを示した。

これで、BussとIgnjatović 1995と同様に、$S^i_2$で$S^{-1}_2E-B^i$の無矛盾性が言えないことを示せれば、限定算術の階層の分離ができるのだが、この2年くらい色々考えているけどまだ言えていない。(Yamagata 2012はだいたい2年くらいまえの考えのスナップショット)まあどこまで言えるかわからないし、名目上の本業とも違うのだけど、やれるところまでやってみるつもり。ペトロス叔父みたいになるのが怖いけどね。

2013年1月14日月曜日

抽象によるソフトウェア設計 - Alloyで始める形式手法


今更ながらざっくりとだけど、Alloy本を読み終わった。最近読書時間がなくって。

感想だけど、読みながらあまり理詰めで考えず、手を動かしながら読むのが一番だと思う。理詰めに考えてしまうと論理の話になって難しくなる。私は通勤時間に読んでいたので、表面的な理解しかしていないと思う。

一番面白かったのが関係論理の部分で、関係論理については初めて知った。これって人間の自然な論理に近いんじゃないだろうか。モンタギュー意味論とかだと高階の概念が大量に出てくるけど、関係論理を使うと一階の世界である程度できるんじゃないだろうか。誰かもうやっているだろうけど。

2013年1月5日土曜日

荘子の「斉物論」とは何か



書物としての「荘子」は33篇が伝えられているのだけど、そのうち最初の2篇、 「逍遥遊」篇と「斉物論」篇が中核をなしていて、おそらく人物としての「荘子」の思想に最も近いだろうと考えられている、のだと思う。「逍遥遊」篇は序論めいた内容なので、「荘子」の思想を最もよく伝えるのは「斉物論」篇ということになる。

さて、この「斉物論」とはどういう意味なのだろうか。解説によると「物論を斉しくす」と読んで、いろいろな立場の統合を図る、と読む意見もあるのだそうだが、「物を斉しくする論」と読んで、万物が大道のもとで1である、という主張をしていると考えるのがまあ普通。

ただ、こう読んでしまうと、この主張をすくなくともナイーブに受け取れば間違っているとしか言いようがない訳で、莊子が一貫した哲学的主張を持っていると考えたければちょっと困る。いや、なんでそう考えたいのかというと、結局ナイーブに間違った主張以上の何かがあるような気がするからで、循環論法なのだけど。

と言うわけで、ここで荘子は単純な「斉物論」を唱えているわけではない、と主張したい。では何を主張しているかというと、それは非常に難しい問題だと思うが、とりあえず斉物論にもっとも関連しているであろう次の節を読むと、莊子が上記のようなナイーブな斉物論を批判していることがわかると思う。

古の人、その知至る所あり。悪くにか至る。持っていまだ始めより物あらずと為す者あり。至れり尽くせり、加うべからず。其の次は以て物ありと為す、而も未だ始めより封あらざるなり。其の次は以て封ありと為す、而も未だ始めより是非あらざるなり。是非の彰かなるや、道のかくる所以なり、道のかくるところの所以は、愛のなる所以なり。果たして成るとかくると有るか、果たして成るとかくると無きか。成るとかくると有るは、故ち昭氏の琴を鼓するなり。成るとかくると無きは、故ち昭氏の琴を鼓せざるなり。昭文の琴を鼓するや、師曠の策を枝つるや、恵子の梧に拠るや、三子の知は幾くすや、皆その盛んなるものなり。故にこれを末年に載せ、唯其のこれを好みては、以て彼に異なり、其のこれを好みては、以てこれを明らかにせんと欲す。彼、明らかにす所きに非ざるに、而もこれを明らかにせんと欲す。故に堅白の昧きを以って終う。而してその子また文の綸を以って終え、身を終うるまで成るなし。是くの若くにして成るというべきか、我もいえどもまた成るなり。是くの若くにしては成ると謂うべからざるか。物と与に成るなし。是の故に滑疑の耀きは、聖人の図る所なり。是れが為めに用いずしてこれを庸に寓す。此れを明を以うと謂う。
(岩波文庫「荘子 第1冊 内篇」4節64ページ)

この節は3つに分解できる。最初はまず「古の人」から「愛のなる所以なり」まで。これだけ読むと、確かに莊子はナイーブな斉物論を主張しているように思える。「古の人」の何も物がない、という立場が完成されていると言っているのだから。しかし、次のパート、「果たして成るとかくると有るか」から「物と与に成るなし。」までを読むと、莊子はそもそも「完成された」とか「欠けている」という区別がどこまで有効か、疑っている。一見完成されている「昭文の琴」、「師曠の策」、恵子の弁舌、そしておそらく「古人の知」も結果的には次第に頽落してしまった。これで完成されたといえるのであろうかと。そして、最後のパート、「是の故に滑疑の耀きは」から「此れを明を以うと謂う。」では、このように「完成」されたものを聖人は取り除こうとする(岩波文庫版の日本語訳から)、つまり斉物論のようなものも取り除いて、用いないのだ、と言っている。

では庸に寓すとはどういうことか。「平常(ありきたりの自然さ)にまかせていくのであって」と日本語訳にはあるが、自然という古代中国の思想の結果出てきた概念を無批判に使ってしまって、わかった気になっていいのだろうかと思う。

ひとつの可能性は「唯其のこれを好みては、以て彼に異なり、其のこれを好みては、以てこれを明らかにせんと欲す。」の1文にあるように、古の人の立場も実は正しいのかもしれないが、それを用いて他の意見に異を唱えたり、また言葉として表現したりすることができない、と言っているのかもしれない。似たような主張として、次のような文がある。(5節、67ページ後半)

既己に一たり、はた言あるを得んや。既己にこれを一と謂う。はた言なきを得んや。一と言とは二たり。二と一とは三たり。此れより以往は巧歴も得ること能わず。而るを況んや其の凡をや。故に無より有に適くすら以て三に至る、而るを況んや有より有に適くをや。適くなくして是れに因らんのみ。

万物が一である、という主張は、それを主張した途端に誤りに成るという厄介な文である、と指摘する。だから、このような主張は間違い、と現代人は思ってしまうが、莊子の解決は、「適くなくして是れに因らんのみ」。これは「庸に寓す」と同じような解決策だろう。「万物が一である」というような絶対的主張は成り立たず、いろいろな見方が世の中にあることを受け入れなさい、というのが莊子の主張であるような気がする。(最後の方適当)


2013年1月4日金曜日

人気エントリー一覧

皆様新年あけましておめでとうございます。抱負とかは、公言しないほうが実現確率が高まるらしいのであえて言わない。

さて、去年アクセスが多かったエントリをリストしようと思う。

  1. モナドとは何か - 私の見方
  2. モデル検査の「モデル」とは
  3. 87クロッカーズ
  4. MacBook Pro Retinaモデルを購入した
  5. ゲーデルの不完全性定理からP≠NP問題にアプローチする
今年もよろしくお願いします。

昔の映画を見た



今更ながら、アマデウスのディレクターズカットを見た。うーんどうだろう、正直劇場版のほうが良かった気がする。ディレクターズカットでは、物語がなんだか間延びしているし、サリエリがただの悪人、モーツァルトはただのダメ人間になっている気がする。

ちょっと面白いのが、昔聞き取れなかった英語のセリフが聞き取れるようになったことで、字幕とせりふがいろいろ違うことに気がついた。特に、最後の場面。最初見た時、結局サリエリはモーツァルトを殺したんだろうかどうなんだろうか、という疑問が湧いたけど、最後の場面のサリエリのセリフを聞くに、神がモーツァルトを殺し、レクイエムを未完成に終わらせた、というのがサリエリの認識であるみたい。凡人サリエリが作曲の過程に関わったレクイエムを神は完成させることを許さなかったと。

ま、私の解釈ですが。