2013年1月5日土曜日

荘子の「斉物論」とは何か



書物としての「荘子」は33篇が伝えられているのだけど、そのうち最初の2篇、 「逍遥遊」篇と「斉物論」篇が中核をなしていて、おそらく人物としての「荘子」の思想に最も近いだろうと考えられている、のだと思う。「逍遥遊」篇は序論めいた内容なので、「荘子」の思想を最もよく伝えるのは「斉物論」篇ということになる。

さて、この「斉物論」とはどういう意味なのだろうか。解説によると「物論を斉しくす」と読んで、いろいろな立場の統合を図る、と読む意見もあるのだそうだが、「物を斉しくする論」と読んで、万物が大道のもとで1である、という主張をしていると考えるのがまあ普通。

ただ、こう読んでしまうと、この主張をすくなくともナイーブに受け取れば間違っているとしか言いようがない訳で、莊子が一貫した哲学的主張を持っていると考えたければちょっと困る。いや、なんでそう考えたいのかというと、結局ナイーブに間違った主張以上の何かがあるような気がするからで、循環論法なのだけど。

と言うわけで、ここで荘子は単純な「斉物論」を唱えているわけではない、と主張したい。では何を主張しているかというと、それは非常に難しい問題だと思うが、とりあえず斉物論にもっとも関連しているであろう次の節を読むと、莊子が上記のようなナイーブな斉物論を批判していることがわかると思う。

古の人、その知至る所あり。悪くにか至る。持っていまだ始めより物あらずと為す者あり。至れり尽くせり、加うべからず。其の次は以て物ありと為す、而も未だ始めより封あらざるなり。其の次は以て封ありと為す、而も未だ始めより是非あらざるなり。是非の彰かなるや、道のかくる所以なり、道のかくるところの所以は、愛のなる所以なり。果たして成るとかくると有るか、果たして成るとかくると無きか。成るとかくると有るは、故ち昭氏の琴を鼓するなり。成るとかくると無きは、故ち昭氏の琴を鼓せざるなり。昭文の琴を鼓するや、師曠の策を枝つるや、恵子の梧に拠るや、三子の知は幾くすや、皆その盛んなるものなり。故にこれを末年に載せ、唯其のこれを好みては、以て彼に異なり、其のこれを好みては、以てこれを明らかにせんと欲す。彼、明らかにす所きに非ざるに、而もこれを明らかにせんと欲す。故に堅白の昧きを以って終う。而してその子また文の綸を以って終え、身を終うるまで成るなし。是くの若くにして成るというべきか、我もいえどもまた成るなり。是くの若くにしては成ると謂うべからざるか。物と与に成るなし。是の故に滑疑の耀きは、聖人の図る所なり。是れが為めに用いずしてこれを庸に寓す。此れを明を以うと謂う。
(岩波文庫「荘子 第1冊 内篇」4節64ページ)

この節は3つに分解できる。最初はまず「古の人」から「愛のなる所以なり」まで。これだけ読むと、確かに莊子はナイーブな斉物論を主張しているように思える。「古の人」の何も物がない、という立場が完成されていると言っているのだから。しかし、次のパート、「果たして成るとかくると有るか」から「物と与に成るなし。」までを読むと、莊子はそもそも「完成された」とか「欠けている」という区別がどこまで有効か、疑っている。一見完成されている「昭文の琴」、「師曠の策」、恵子の弁舌、そしておそらく「古人の知」も結果的には次第に頽落してしまった。これで完成されたといえるのであろうかと。そして、最後のパート、「是の故に滑疑の耀きは」から「此れを明を以うと謂う。」では、このように「完成」されたものを聖人は取り除こうとする(岩波文庫版の日本語訳から)、つまり斉物論のようなものも取り除いて、用いないのだ、と言っている。

では庸に寓すとはどういうことか。「平常(ありきたりの自然さ)にまかせていくのであって」と日本語訳にはあるが、自然という古代中国の思想の結果出てきた概念を無批判に使ってしまって、わかった気になっていいのだろうかと思う。

ひとつの可能性は「唯其のこれを好みては、以て彼に異なり、其のこれを好みては、以てこれを明らかにせんと欲す。」の1文にあるように、古の人の立場も実は正しいのかもしれないが、それを用いて他の意見に異を唱えたり、また言葉として表現したりすることができない、と言っているのかもしれない。似たような主張として、次のような文がある。(5節、67ページ後半)

既己に一たり、はた言あるを得んや。既己にこれを一と謂う。はた言なきを得んや。一と言とは二たり。二と一とは三たり。此れより以往は巧歴も得ること能わず。而るを況んや其の凡をや。故に無より有に適くすら以て三に至る、而るを況んや有より有に適くをや。適くなくして是れに因らんのみ。

万物が一である、という主張は、それを主張した途端に誤りに成るという厄介な文である、と指摘する。だから、このような主張は間違い、と現代人は思ってしまうが、莊子の解決は、「適くなくして是れに因らんのみ」。これは「庸に寓す」と同じような解決策だろう。「万物が一である」というような絶対的主張は成り立たず、いろいろな見方が世の中にあることを受け入れなさい、というのが莊子の主張であるような気がする。(最後の方適当)


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