2013年2月8日金曜日

老子と荘子の関係について


最近「老子」を読んだ。色々面白かったのだけど、とりあえず荘子との関係で思ったことを書いてみる。私は中国の思想とか文献考証には疎いので、感想程度と思って読んでほしい。

伝統的には、荘子は老子の思想を受けて、それを発展させたと言われてきた。これは史記で司馬遷がそう書いているからだと思う(ごめんなさい、史記読んでない)。ただ、素直に両方の本を読んでみると、あまりそうは思われない。確かに「荘子」の中で老子は度々言及されるが、老子がよく出てくるのは後世の付け足しとされる「外篇」や「雑篇」で、本来の荘子の思想に近いとされる内篇では三回しか言及されない。特に、中核とされる逍遥游篇と斉物論篇は、老子に言及することなく、完全にオリジナルな思想を展開する形で書かれている。むしろ、内篇の中で最初に老子が言及されているところでは、少なくとも老子を押し頂く学派を批判するようなことが書かれている。

(岩波文庫「荘子 第一冊 [内篇]」p98 養生主篇 五)
老たん死す。秦失これを弔し、三たび号して出づ。弟子曰く、夫子の友に非ずやと。曰く、然りと。然らば即ち弔することの此の若くにして可ならんや。曰く、然り。始めは、我以て其の人と為せるも、而も今は非なり。向に吾れ入りて弔せるに、老者のこれを哭すること其の子を哭するが如く、少者のこれを哭すること其の母を哭するが如きあり。彼れ其のこれに会する所以は、必ず言をもとめざるに而も言い、哭をもとめざるに而も哭する者あらん。是れ天を遁れ情に倍きて其の受くるところを忘る。古者は、これを天を遁るるの刑と謂えり。適〃来たるは夫子の時なり。適〃去るは夫子の順なり。時に安んじて順に処れば、哀楽も入る能わず。古者は是れを帝の県解と謂えり。

つまり、老子の死を自然な変化とみなさず葬儀で号泣している老子の信奉者たちが批判の対象になっている。

では何の関係もないかというと、そういうわけでは無さそうだ。例えば、

(講談社学術文庫「老子」下篇42章冒頭部分)
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず



(上掲「荘子」p67後半 斉物論篇 5節)
既己に一たり、はた言あるを得んや。既己にこれを一と謂う。はた言なきを得んや。一と言とは二たり。二と一とは三たり。此れより以往は巧歴も得ること能わず。而るを況んや其の凡をや。故に無より有に適くすら以て三に至る、而るを況んや有より有に適くをや。適くなくして是れに因らんのみ。

とは関係有りそうに思う。ただ、荘子が言語論的な議論をしているところを、老子では形而上学的な世界の起源論になっているところが違う。

また、

(同「老子」下篇76節冒頭部分)
人の生まるるや柔弱、其の死するや堅強なり。

とあるけれど、荘子の斉物論篇では人の心が生まれた時の柔軟な状態から、凝り固まって死に至るまでの過程が描かれている。(Chad Hansenの説)

とはいえ、荘子と老子とで同じフレーズでも観点が異なっているので、単純に荘子が老子に学んだとは言えないだろう。むしろ、荘子や老子以前に原道家的な思想が有って、両者はそれを受けているのではないかと思う。