2013年5月26日日曜日

FMEA・FTA実施法



FMEA,FTAどちらもシステムの安全性を分析するときに使われる手法。(だけじゃないけど)

簡単に説明すると、FMEA(Fault Mode and Effect Analysis)は、まずシステムをコンポーネントに分けて、それぞれがどのような故障モードを持つか書きだす。そしてそれぞれについてシステム全体への影響と対策を書いていく、というもの。実システムについてやってみると結構難しく、経験ある人から、故障モードと故障を混同しているとダメ出しされた。実は違いがわかっていない。

FTA(Fault Tree Analysis)は、問題にしたいフォルト(飛行機が落ちるとか、エアバックが衝突時以外に起動してしまうとか)から出発し、それがどのような事象を原因にして起こるか書きだす。そして、その事象がすべてそろったときフォルトが起きるなら、事象をANDゲートで結び、どれかひとつの事象で起きるときにはORゲートで結ぶ。これを繰り返して、これ以上分解できない基本事象に至れば終わり。こうやって出来たブール木を解析して、フォルトの必要十分条件を求めたりする。

で、FMEAとFTAとどう使い分けるかというと、これはあまりはっきりした基準はないそうだ。ただ、自分の印象論で言うと、どういう問題が起こりえるか網羅的に知りたいときにはFMEAを、問題にしたいフォルトがあってその原因を探りたいときはFTAをするのかなあと思っている。

私はちょっと勉強しただけなのだけで実務経験もないのだけど、ちょっと感想を。もちろんどちらの手法もやらないよりやった方がいいのだけど、ちょっとなあと思うところもある。まずFMEAについて言うと、FMEAって基本的に1つの故障の影響しか考えなくて、複数の故障は考えない。でも実際事故が起きているのを見ると、複数の故障が絡んでいることが多いわけで、FMEAだと不十分かなあと思う。

それからFTA。ツリーを書いて、ある程度フォルトの原因が列挙できるわけだけど、どの原因で起きやすいか、とか知りたいし、そうすると確率を計算したくなる。実際、FTAから故障率を求めたりする方法もあるのだけど、この方法は基本事象が独立に起きると仮定している。だから、冗長系を入れたりするとすごく確率が小さくなる。でも本当に独立と仮定していいのだろうか。実際にはフォルトがカスケード的に起きることのほうが多いんじゃないか。まあ例えば地震→津波→停電みたいな。

この本では、FTAの活用例として原子力の安全性に関するラスムッセン報告書を挙げているのだが、Wikipediaによると、この報告書は原子炉のメルトダウンは2万年に1回しか起きないと評価しているそうだ。他にも…万年に1回とかいう評価は以前はよく聞いたけど、結局この数十年のうちに3回起きているわけで、これはFTA手法の失敗例ではないだろうか。

リスク評価で、PRA(確率論的リスクアセスメント)が流行っているけど、元の確率がゴミなら意味ないよね、という話だと思う。

2013年5月21日火曜日

女子大生マイの特許ファイル他


仕事で特許を扱わなくてはいけなくなって、泥縄的に読んだ。こういう本ってもはやほとんどあらゆる分野にあるんだね。まあ、嚆矢になった本はきちんとラノベになっていたのにくらべて、この本は対話形式で物事を解説するというプラトンの時代からあるやり方になってるけど。

内容は、具体的な例を上げながら、特許を構成する要件について解説するというもので、特許の基本についてわかりやすく解説してある。



で仕事では特許調査をしなくてはいけなかったのだけど、これを一応参考にしてみた。ただ、ちゃんとやるのはとても手間が掛かりそうなことが分かってやれやれという感じだった。

それにしても、自分が見た限りでは、特許ってどこが新しいの??というものが多い気がする。その割にはやたらと一般的な請求項が立ててあったりして、新しい創意工夫をしてもそれに引っかかってしまいそう。ほんとうに必要な制度なのだろうか。

2013年5月19日日曜日

荘子と相対主義

荘子について英語版ウィキペディアは価値相対主義者であると書いている。
Zhuang Zhou, more commonly known as Zhuangzi[1] (or Master Zhuang), was an influential Chinese philosopher who lived around the 4th century BCE during the Warring States Period, a period corresponding to the summit of Chinese philosophy, the Hundred Schools of Thought. He is credited with writing—in part or in whole—a work known by his name, the Zhuangzi, which expresses a philosophy which is skeptical, arguing that life is limited and knowledge to be gained is unlimited. His philosophy can be considered a precursor of relativism in systems of value.  
 ただ「荘子」を読むと、少なくとも単純な相対主義を批判しているように思える。
荘子曰く、射る者、前め期するに非ずして中る、これを善射と謂わば、天下皆な羿なり。可ならんかと。恵子曰く、可なりと。荘子曰く、天下に公是あるに非ざるなり。而して各々その是とする所を是とすれば、天下皆堯なり。可ならんかと。恵子曰く、可なりと。
荘子曰く、然らば即ち儒・墨・楊・へいの四、夫子と五と為る。果たして孰れか是なるや。あるいは魯遽の若き者か。その弟子曰わく、我れ夫子の道を得たり。吾れ能く冬に鼎を焚きて夏に冰りを造ると。魯遽曰く、是れ直だ陽を以って陽を召き、陰を以て陰を召くのみ。吾が謂わゆる道に非ざるなり。吾れ子に吾が道を示さんと。是に於いてこれが為に瑟を調え、一を堂に廃き、一を室に廃き、宮を鼓すれば宮動き、角を鼓すれば角動く。音律同じきかな。或いは一弦を改調して、五音に於いて当たるなからしむるや、これを鼓して二十五弦皆な動く。未だ始めより声に異ならざるも、音の君たればのみ。且んど是くの若き者かと。(岩波文庫「荘子」第3冊、徐無鬼篇第5節、241ページ) 
最初の節は理解しやすいと思う。的を射る、という行為は単に矢が的を射る、という物理的事実だけでなく、的を射ようとする意図が含まれていなければならない。同様に、何かが「是」である、とは単に発話内容や思考内容の性質ではなく、ある基準に従って「是」なる発話や思考をしようとする意図が含まれていなければならない。しかし、もし「公是」というものがないという相対主義の立場にしたがうと、各人が各人独自の基準で「是非」を判断しているだけになる。

ここでヴィトゲンシュタインの私的言語の不可能性の議論を思い出そう。ヴィトゲンシュタインによれば、言語が意味を持つためには、何かの基準によってそれが使用されることが必要である。しかし、ある特定個人にしか理解されない私的言語が存在すると、その私的言語の使用基準はその特定個人の言語使用に合致しているかどうかで判断する他はない。しかし、これは私的言語においてあらゆる言語使用が正当化されてしまうということである。よって、私的言語は使用基準を持ち得ず存在しない。

この議論を「是非」の基準について当てはめてみよう。もし「是非」の基準が各人それぞれであるとすると、あらゆる「是非」の判断が正当化されてしまうということである。これは「是非」の基準がないということと同じである。これは「是非」が存在しないことと同じである。

さて、恵子はこの議論を否定して、すべての人が羿や堯で良い、と言っている。これに対して、後段では荘子は恵子に反問する。もしすべての人が羿や堯で良いのならば、相対主義を否定する学派も是とならないだろうか。そのあと魯遽の例えが書かれているのだが、この喩えはポイントが何も書いていないので理解し難い。しかしとりあえず、魯遽の弟子は、どんな立場の主張も擁護したり反駁したりできるソフィスト、魯遽はさまざまな立場の主張を統合する「音の君」と理解できないだろうか。「荘子」の天下篇にある恵子の命題「広く万物を愛すれば天地は一体なり」を見ると、恵子の立場は様々な学説を統合する立場、つまり魯遽に例えられている立場と思える。

このような立場に、荘子は批判的だ。恵子の立場は、確かに様々な学説を統合する立場ではあるが、それは「音の君」ではあってもやはりうつろいゆく「声」に過ぎず、「是」ではないと。しかし、なぜうつろいゆく「声」を「是」としてコミットしないのかについては、荘子のいう「明智」とは何かとも関わってくるのだと思うのだが、このあと何も書かれていないのでこの節からは読み取ることはできない。