2013年5月19日日曜日

荘子と相対主義

荘子について英語版ウィキペディアは価値相対主義者であると書いている。
Zhuang Zhou, more commonly known as Zhuangzi[1] (or Master Zhuang), was an influential Chinese philosopher who lived around the 4th century BCE during the Warring States Period, a period corresponding to the summit of Chinese philosophy, the Hundred Schools of Thought. He is credited with writing—in part or in whole—a work known by his name, the Zhuangzi, which expresses a philosophy which is skeptical, arguing that life is limited and knowledge to be gained is unlimited. His philosophy can be considered a precursor of relativism in systems of value.  
 ただ「荘子」を読むと、少なくとも単純な相対主義を批判しているように思える。
荘子曰く、射る者、前め期するに非ずして中る、これを善射と謂わば、天下皆な羿なり。可ならんかと。恵子曰く、可なりと。荘子曰く、天下に公是あるに非ざるなり。而して各々その是とする所を是とすれば、天下皆堯なり。可ならんかと。恵子曰く、可なりと。
荘子曰く、然らば即ち儒・墨・楊・へいの四、夫子と五と為る。果たして孰れか是なるや。あるいは魯遽の若き者か。その弟子曰わく、我れ夫子の道を得たり。吾れ能く冬に鼎を焚きて夏に冰りを造ると。魯遽曰く、是れ直だ陽を以って陽を召き、陰を以て陰を召くのみ。吾が謂わゆる道に非ざるなり。吾れ子に吾が道を示さんと。是に於いてこれが為に瑟を調え、一を堂に廃き、一を室に廃き、宮を鼓すれば宮動き、角を鼓すれば角動く。音律同じきかな。或いは一弦を改調して、五音に於いて当たるなからしむるや、これを鼓して二十五弦皆な動く。未だ始めより声に異ならざるも、音の君たればのみ。且んど是くの若き者かと。(岩波文庫「荘子」第3冊、徐無鬼篇第5節、241ページ) 
最初の節は理解しやすいと思う。的を射る、という行為は単に矢が的を射る、という物理的事実だけでなく、的を射ようとする意図が含まれていなければならない。同様に、何かが「是」である、とは単に発話内容や思考内容の性質ではなく、ある基準に従って「是」なる発話や思考をしようとする意図が含まれていなければならない。しかし、もし「公是」というものがないという相対主義の立場にしたがうと、各人が各人独自の基準で「是非」を判断しているだけになる。

ここでヴィトゲンシュタインの私的言語の不可能性の議論を思い出そう。ヴィトゲンシュタインによれば、言語が意味を持つためには、何かの基準によってそれが使用されることが必要である。しかし、ある特定個人にしか理解されない私的言語が存在すると、その私的言語の使用基準はその特定個人の言語使用に合致しているかどうかで判断する他はない。しかし、これは私的言語においてあらゆる言語使用が正当化されてしまうということである。よって、私的言語は使用基準を持ち得ず存在しない。

この議論を「是非」の基準について当てはめてみよう。もし「是非」の基準が各人それぞれであるとすると、あらゆる「是非」の判断が正当化されてしまうということである。これは「是非」の基準がないということと同じである。これは「是非」が存在しないことと同じである。

さて、恵子はこの議論を否定して、すべての人が羿や堯で良い、と言っている。これに対して、後段では荘子は恵子に反問する。もしすべての人が羿や堯で良いのならば、相対主義を否定する学派も是とならないだろうか。そのあと魯遽の例えが書かれているのだが、この喩えはポイントが何も書いていないので理解し難い。しかしとりあえず、魯遽の弟子は、どんな立場の主張も擁護したり反駁したりできるソフィスト、魯遽はさまざまな立場の主張を統合する「音の君」と理解できないだろうか。「荘子」の天下篇にある恵子の命題「広く万物を愛すれば天地は一体なり」を見ると、恵子の立場は様々な学説を統合する立場、つまり魯遽に例えられている立場と思える。

このような立場に、荘子は批判的だ。恵子の立場は、確かに様々な学説を統合する立場ではあるが、それは「音の君」ではあってもやはりうつろいゆく「声」に過ぎず、「是」ではないと。しかし、なぜうつろいゆく「声」を「是」としてコミットしないのかについては、荘子のいう「明智」とは何かとも関わってくるのだと思うのだが、このあと何も書かれていないのでこの節からは読み取ることはできない。